川越で「朝鮮通信使」の行列

マラソンレースまであと9日を切った。先にも書いたが、走り込みはあまり進んでいなくて、今日ようやくレースペースに近い設定で走ったところだ。出場を予定している大田原マラソンはこれまで比較的フラットな周回コースだったそうだが、今年から、前半が下りで30キロ以降が上りとなる片道コースに変更された。スタミナが試される厳しいレースになりそうだ。

残された課題は、①アップダウンのコースに少しでも慣れること。②ペース設定が適切かを確認し、必要に応じて修正すること。そして、③疲労の回復を図り、本番までに調子を上げること。①はいまさらという感じがするが、早朝練習のジョグで入間川の土手を利用する程度かもしれない。最も大切なのは、③である。まずは、故障なくスタート地点に立つことに努めたい。

話は変わるが、今日は写真撮影にとって大きなイベントが川越市内で2つ催された。一つは、「朝鮮通信使」のパレードが、一番街を中心に行われたこと。もう一つは、川越のシンボルである時の鐘と洋館の川越商工会議所(注1)が今夜だけライトアップされたことだ。
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前者は、正式には「唐人揃い-朝鮮通信使-多文化共生・国際交流パレード」という。「朝鮮通信使」は、朝鮮王国と国交回復した1607年から1811年までの200年を越える長きにわたって、友好親善の証として、将軍襲名などの時に招かれたものだ。鎖国状況にあったと言われる江戸時代にあって、計12回にわたる大文化使節団がソウルから江戸を訪れたことはあまり知られていない。「「鎖国令」と名づけた法令が出されたことはなく、19世紀になってからオランダ商館長のケンペルがその著『廻国奇観』のなかで用いた用語を蘭学者・志筑忠雄が「鎖国」と翻訳したから、江戸時代=「鎖国」的状況として認識されてきたにすぎない」と仲尾宏『朝鮮通信使-江戸日本の誠信外交』(岩波新書にある。

また、「多文化共生」とは、江戸時代という過去の国際交流にとどまらず、今日最も近いすぐ隣国と民族を理解し、共生の道をさぐることを指している。同書では「対馬の「朝鮮口」には、他の三つの窓口にはみられな見られない、多様で多大な儀礼の交歓や情報・文化の往来があった」とも書いている。

「朝鮮通信使」と川越との接点は、川越が生んだ江戸時代の豪商榎本弥左衛門が書き残した日記『榎本弥左衛門覚書』(注2)に、江戸で第6回の朝鮮通信使の行列について記録し、川越商人に伝えたことがその発端といわれている。
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後者は、近くに住みながら見たのは初めてだ。青味がかった控えめな明かりに照らされた建物は、昼間の賑わいはうそのように静寂に包まれていた。できれば、周辺の照明をもう少し落としてもらえると、一層引き立つのではないかと思う。
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(注1)昭和3年に武州銀行が建てたもので、昭和45年に同会議所が移転した。
(注2)1週間前に『榎本弥左衛門覚書』の原本を目にする機会に恵まれた。ガラス越しに見るだけであったが、ある種の感動を覚えた。川越市立博物館の20周年企画展で。
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by hasiru123 | 2010-11-14 23:31 | その他