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夢のマラソン

勇気と感動(上)

スポーツを見て、よく言われる言葉に「勇気と感動をありがとう」というのがある。私は、この言い方に違和感を覚える。勇気とか感動は与えられたり、与えたりするものだろうか。

ちょうど1週間前のこと。サッカー女子ワールドカップ決勝で、日本は米国をPK戦の末に下し、初優勝を果たした。「なでしこジャパン」のスピードある妙技とうまいパス回しに舌を巻いた。翌日(19日)の朝刊を見ると、以下のようなフレーズが目についた。

「そんな姿に日本中が熱狂したのは、大震災以降の重苦しさのなかで、人々がなでしこの快進撃に希望や期待を重ね合わせたからだろう。一瞬でも苦しさを忘れ、勇気を与えられた人は多かったに違いない」(朝日新聞社説)。

「満員のドイツの観衆が大歓声で祝福し、敗れた米国のメディアも震災から立ち直る日本の不屈の精神を表すとの賛辞を寄せた日本女子の「勇気」だ▲その感動をすべての人が分かち合えるスポーツの栄光である」(毎日新聞「余禄」)。

「東日本大震災の被災者を励ましたい、という決意だろう」(東京新聞「筆洗」)。

「東日本大震災からの復興を目指す日本にとって何よりの励ましとなる優勝だった」(毎日新聞社説)。

また、ある大手小売業が展開するキャンペーンには「なでしこジャパン 感動をありがとう」というのがあったし、地元のある食品メーカーのブログには「なでしこジャパン! 東北に勇気をありがとう~」というのもあった。

いずれも似たような言い回しで、紋切り型になっているのはやむをえないことだと思う。問題はそういうことではなくて、事象に対する起動の仕方というか、発想や反応がもの足りないと感じるのである。これらの表現からは、何事かをなし、現実のものにしていく積極的な意思が感じられない。せっかくの勇気や感動が、ただ「ありがとう」で終わってしまうのではないかと、不安になる。

勇気とか感動は与えられたり、与えたりするものではない。自らの思いと努力でつくっていくものである。「そこにある」のではなくて、自分から手を差し伸べて、探し、引っ張り込むものである。そうでなくては面白くないし、長く記憶に残ることもないだろう。感動するということは、その人に共鳴する何かが備わっている証拠であって、ワールドカップ優勝という偉業でなくても、日常の出来事の中から見出すことだってできるはずだ。

勇気や感動は、人の思いに関わることなので、本来あげたりもらったりすることができない。自分の思いは自分自身で抱き、刻むしかないのではないか。何か勘違いがあるように思える。

上記の「余禄」には、同時にオシム元監督のこんな言葉も引用されていた。「毎日奇跡が起こるわけではない。奇跡を金で買うこともできない。入念に準備をした上でしか、奇跡は起きない」「勇気をもってのぞまないと幸運は訪れない」。そうなのだ。
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by hasiru123 | 2011-07-24 23:23 | その他