2011年 11月 27日
ミロ展を見る
陶芸というのは、究極的には土と火がすべてだそうだ。どんなに心を込めて粘土をこねても、どんなに心を込めて絵付けをしても、火の力に委ねた時点で、作家の努力は終わりである。あるところまで力を尽くしたら、祈りを込めて火の力に全てを託すしかない。姜尚中さんの書いた『あなたは誰?私はここにいる』(集英社新書)に教わった。
「陶芸はアートの世界では長く、「第二芸術」的に、絵画や彫刻より一段低く位置づけられてきた」が、その理由の一つがここにある、と書いている。「一段低い」かどうかはともかくとして、版画や民芸品のようなものと考えればいいのではないだろうか。鑑賞のための芸術と実用のための調度品などとの中間に位置するからだ。
そこで版画。版画の一種で、水と油の反発を利用して(または他の方法で)平らな版で刷るリトグラフというのがある。先ごろ、ジョアン・ミロの版画を見るる機会があったので、このことについて書いてみたい。ミロはスペイン出身のピカソ、ダリと並び称される20世紀を代表する芸術家の一人だ。絵画や版画、陶芸など幅広いジャンルで活躍した。また、多くの版画、特にリトグラフを作出している。
リトグラフは、他の版画に比べて複雑で多くの時間を必要とする。したがって、作家の技量だけでなく使用する道具や画材の性質に制約される部分が大きいと聞く。初めて出会うミロの世界に心がときめいた。
今回は版画に焦点を当てて、初期から晩年までの145点が展示された。初期のの作品は童心を誘う絵のような面白さがあり、夢想的な雰囲気を多分に持っている。晩年になるにしたがって、重厚さを帯びたり、黒を中心とした日本画的な構成や太陽などを単純化し原色を強く押し出したものなど、多彩な作品群に圧倒された。
「独り語る」と題した6点のリトグラフがあった。太い線で描かれた記号や文字が踊っている。詩らしきものも挿入されていて、詩人とのコラボレーションでできた作品だそうである。「私は庭師のように働く」は、子供がクレパスで書きなぐったような単純なものだが、見ようによっては複雑怪奇な曲線がどこまでも続くようで、不思議な版画だ。
これらの抽象画を解釈しようとするとなにやら難しくなるが、私はネクタイを選ぶ感覚でつきあうことにしている。そうすれば、肩がこることなく、すうっと自分の中に入ってくる。版画は民芸品なのだから。陶芸が火の力に委ねるように、一度で色付けした画材の力に委ねるしかないところも面白い。
川越市立美術館で開催されている特別展「スペインの巨匠 ミロ 色踊る版画」は、12月11日(日)まで。
(写真)特別展「スペインの巨匠 ミロ 色踊る版画」のポスター