夢のマラソン

自滅の道

冬の五輪の場合には二つの方向に分かれていくようになった。それは、あくまでもスポーツの領域にとどまるものと、曲芸的な世界(サーカス的な世界)へ飛び出していくもの、である。前者はクロスカントリーとスピード・スケートだけで、後者はそれ以外の種目、たとえばフィギュアスケートやジャンプ、アルペン、フリースタイルなどである。そう書いたのは沢木耕太郎だ(『シネマと書店とスタジアム』)。

夏の五輪だったらどうだろうか。これらの二つの方向以外に、判定の世界(アナログ的な世界)をに加えたい。曲芸的な世界もそうだが、体操やシンクロナイズドスイミングなどのように審判による採点が勝負の行方を左右する競技である。最近は、柔道などの格闘技もその傾向が強くなってきた。

審判による厳正な判定に基づき、公正な闘い方を旨とするもので、スポーツマンシップの鑑(かがみ)みたいなものである。しかし、人による誤審や悪意ある判定によって、スポーツの興味が台なしとなることもある。

ロンドン五輪の柔道男子で起きた。66キロ級準々決勝でのチョ・ジュンホ選手との対戦で、判定が覆り、海老沼匡選手が勝利をものにした。最初はチョの青3本があがったが、審判委員の指摘で判定がやり直された結果、海老沼の白3本へと覆ったものだ。一度は、負けと判定されたものが、再判定で、一転勝者となった。

このような誤審がなぜ起こり、いとも簡単に判定が覆ったのか。そして、柔道男子の篠原信一監督がスタンドから大声を上げて激怒する姿はテレビの画面からよくわかったが、審判団に公式に抗議や説明を求めたのだろうか。わからないこと尽くめの試合だった。

判定の世界では、極端な場合にはこのような事態を招くこともあることを知った。スポーツを楽しむことに徹するのであればこの方向を目指す競技があっても何ら問題はないが、国家間でメダルの数を競う近代五輪(?)には向かないのではないか。

たとえば体操。技術力や美しさを競うことはできるが、それは審査委員が判定するのではなく見る人が自由に判断すればいいことだ。審査委員が、一定の評価基準をクリアしているというお墨付きを与えるくらいのことはできると思うが。スポーツの競技というよりも競演に近い。そして、格闘技が明らかに「競演」の世界に足を踏み出している。メダル競争と五輪は自滅の方向へ向かって歩んでいるように思えてならない。
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by hasiru123 | 2012-08-05 23:23 | その他
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