監督さまざま

受験生は「監督」であり、「選手」でもある。ある受験指導者から伺った話である。受験生は実際に勉強を自ら行う「選手」の立場であると共に、どのような勉強をし、合格へ導くかという戦略を練り、問題点があればそれを修正する「監督」の立場でもある。

受験生に限らず生徒は、どちらかというと自分は選手という意識が強いのではないかと想像する。監督の立場になって客観的に自分を見て、自分を管理することも重要だ。つまり、監督は選手の鏡だと。

ついでながら、野球のファンなら一度はやってみたいのが「監督」だということも、いつだったか新聞のコラムで読んだことがある。そうした監督への憧れについて、昨年亡くなった作家の丸谷才一さんが、「あれなら俺(おれ)にもやれそうだ」という感じがするからだと書いていたのだそうだ。

投手や野手などとても出来そうにないし、目の前でバットを振り回される捕手もかなわない。打つのも難しい。だが「采配なら俺だって」ということだろうか。だからファンはとかく監督の悪口を言いたがるのだと、丸谷さんは説明している。

たしかにネット裏から観戦する身には、懸命にプレーしている選手を批判するのは気が引ける。だが、監督の采配なら、後付けでいろいろ言ってもバチは当たらないだとうという気分はあるかもしれない。この時のコラムは、3年前にキューバのカストロ前議長がWBC日本チームの原監督の采配を批判したというニュースに触れて書かれたものだったと記憶する。2次予選だったかもしれない。韓国との対戦で、一塁にイチローを置いてのバントは「ミス」だと切り捨てた。つまり、バントをさせる場面ではないと。

局面次第で監督は神様になったり、悪口を言って溜飲を下げる材料にされたりする。それを受け流すしなやかさがないと、とても勤まりそうにない。監督は、精神をすり減らす激務にちがいない。

その監督が、「重大な不当行為が発生していた」と厳しく批判されている。柔道女子日本代表での暴力指導を告発した15人の選手へのJOC「緊急調査対策プロジェクト」による聞き取り調査で、平手打ちなどの行為や、練習で棒やむち状などを振り回して選手を威嚇し、侮辱的な発言をしたことを認めたとの報告があった(3月17日付毎日)。目に見える暴力だけでなく、言葉や態度による人権侵害が日常行われていたということだろう。

暴力による指導が問題なのは、それをける側の人権を踏みにじる行為だからだ。すでに辞任した当該監督をこれ以上追求することに、あまり意味はない。むしろ、スポーツ大国を目指すはずの日本にこのような旧態依然とした指導方法がまかり通っていることに、もっと目を向けるべきだろう。

殴られることが当たり前の環境で育った指導者を変えさせるにはどうしたらいいか。暴力なしでも選手が成長することを現場で実践し、証明していくことが、指導者の意識改革につながる。のびのび指導の推進こそが、暴力撲滅の近道だと考えている。かつて、競泳の千葉すずさんが代表選考のあり方を巡って異議申し立てを行ったことをきっかけに、日本水泳連盟の選手選考基準が大きく変わった前例がある。今回の指導者の暴力事件を契機に、日本のスポーツ界は変わらなくてはなるまい。
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by hasiru123 | 2013-03-17 19:44 | その他  

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