2013年 11月 04日
夏の日の思い出
天覧試合の巨人-阪神戦で、終盤に長嶋がホームランを打って勝負に決着をつけたことがあった。また、水原茂監督(故人)の時代に、川上さんは巨人のコーチをやっていた。国松選手が満塁サヨナラホームランを打ったときのことだ。国松選手が3塁を回ったときに、3塁コーチスボックスに立っていた水原監督が(そのころは監督がコーチスボックスに立つことがよくあった)感極まって国松選手の背中に飛び乗って、おぶさるような格好でホームインしたことを思い出した。
これらは、いずれも家族4人で小さな丸いちゃぶ台を囲んで、父はビールを飲みながらするめなどをかじり、ナイター観戦をしていたシーンだ。私がそういうことを覚えていたということは、きっと私もナイター中継にかじりついていたのだと思う。
では、そのときは母何をやっていたのだろうか。思い出すのは、母が台所でおかず作り、できあがったのもを次々と運んでくるというような、忙しそうに立ち働く姿だった。そのころの食事はお世辞にもご馳走とは呼べるようなものではなかったから、そんなに次から次とおかずが運ばれてくるはずはないのだが、なぜかそういう記憶が焼き付いている。
父は鉄道員だったから、非番の日と泊まり日とが交互にあって、父のいる日は母が一生懸命に酒の肴を作っていたため、自然と品数が多くなったのだろう。しかし、父のいない日はきわめて質素なものだった。そんなことから、父の帰宅した日の夕飯時と母が忙しそうに働らく姿とが二重写しに感じられるのだ。
父は食べ物に結構口うるさい人だった。今から考えると、母は父がいない日にはうまく手を抜いていたのではないだろうか。そういった多忙な生活の中にもメリハリとかしなやかな切り替えみたいな構えを身につけていたように思う。そんな母だからこそ、長く元気に生きて来られたのかもしれない。母の一周忌を迎えて、そんなことを考えた。