2017年 11月 14日 ( 1 )

朝鮮通信使に学ぶ

江戸時代は「鎖国の時代」と言われる中で、四つの窓口を持っていた。薩摩藩の下におかれた琉球王国との通交、長崎における中国とオランダ商人との通商、アイヌの人々と松前藩との交易、そして朝鮮国との通交・通商である。自由な海外交流こそ禁止されていたが、幕藩体制という枠組みの中で、確実に海外とつながっていた。

その意味で「鎖国日本」という呼び名は正しくない、と仲尾宏著『朝鮮通信使―江戸日本への善隣使節』に教わった。

朝鮮通信使に関する記録が、先ごろ国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって重要な歴史文書などを認定する「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されることになった。対馬(長崎県)から江戸を経て、徳川家康が祭られる日光東照宮(栃木県)まで一行が通った地域の外交文書や行列の様子を描いた絵などが評価されたものである。

先ごろ、川越市内で13回目の「川越唐人揃(とうじんぞろ)いパレード」が行われた(注1)。唐人揃いは18世紀から19世紀初頭にかけて、川越氷川神社の祭礼の付け練り物(行列)として本町(現在の元町1丁目付近)の氏子らが朝鮮通信使をまねて仮装行列を行い人気を博したとされる。

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朝鮮通信使は合計で12回来日し、そのうち11回は江戸まで来ている。しかし、川越ヘは一度も来ていない。なぜ、川越に唐人揃いがあったのか。

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そのヒントは、当時隆盛を極めた川越商人の存在にある。

江戸まで朝鮮通信使行列を見に行った川越商人の記録が残されている。塩などを扱っていた榎本弥左衛門(1626-86年)が記した「榎本弥左衛門覚書」だ。

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朝鮮通信使が6回目に来日したときに(1655年)、榎本は江戸本町で見物し、行列の様子を同書に詳しく書き残している。例えば、江戸へ入った日や将軍引見、日光への出発・帰府、帰国の日付などが記録されている。これらは、江戸幕府の公式記録である「徳川実紀」とも一致している(注2)。かれは行列見物から帰ってから、その仮装を思いたったのかもしれないが、川越の町に活気を呼び込みたいという商人気質のようなものを感じとることがでる。

また、川越氷川神社には、朝鮮通信使を模写した「朝鮮通信使行列大絵馬」が残されている。どのような経緯で大絵馬が奉納されたかは不明だが、江戸時代の氷川祭礼には本町(こちらは川越の本町)の付祭に朝鮮通信使の仮装行列が出ていて、祭礼との関連性がうかがわれる(注3)。

わが国に限らず、隣国と良好な関係を築くことは永遠のアポリア(難題)とも言える昨今である。改めて、このことに正面から取り組んだ当時の日朝両国の叡智に深く感じ入った。

(注1)「唐人」とは「からひと=韓人」のことで、江戸時代には朝鮮人をそう呼んでいた
(注2)『榎本弥左衛門覚書』(東洋文庫)の大野瑞雄氏の校注

(注3)「川越市立博物館だより」第49号
(写真)11月12日の「川越唐人揃いパレード」


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by hasiru123 | 2017-11-14 20:21 | その他