ブログトップ

夢のマラソン

カテゴリ:マラソン( 85 )

読売新聞のコラム「編集手帳」は、ホリプロの社長・堀威夫氏の自伝を引いてこう書いた。<人気の瞬間風速ではなく、「人気×歳月」の総量を追うのが、前途ある若い人を預かる経営者の責任である>(2012年7月12日)

マラソン選手についても同じことが言えるだろう。指導者には「記録」と「歳月」の掛け算で前途ある若い選手を育てる責任がある、と。そう応援したくなるくらいの活躍だった。ボストンマラソンで3位に入った大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)のことである。

タイムは2時間10分18秒。トラックで著しい成長を遂げてきた選手としては、「驚くほどの好記録ではないな」というのがこの第1報に接したときの正直な感想だった。

しかし後から伝えられた情報によると、レース当日は20度近くまで温度が上昇していて、2時間3分から4分のベスト記録を持つ東アフリカ勢やリオ五輪のメダリストたちとほぼ互角に闘い上位に食い込んだとのことだった。そして、アップダウンの多い厳しいコースにもかかわらず、35キロから40キロを15分7秒でカバーしたことなどを考えると、相当にタフなレースをこなしたといえるのではないか。

マラソンの成長で大事なのは記録ではない。また、順位でもない。優勝を目指してしのぎを削るレースの中で、ライバルたちと四つに組み、どう挑むことができたかである。数字に表わすことのできないアナログ的な成果といえるだろう。そこから、次の大会に向けてつながるものが得られたとすれば、大きな収穫である。

今回の結果が瞬間風速に終わることなく、さらなる高みに向かう一里塚になることを願う。

[PR]
by hasiru123 | 2017-04-20 07:43 | マラソン

2月26日に行われた東京マラソンの男子は、ウィルソン・キプサング(ケニア)がマラソン国内最高記録の2時間3分58秒で優勝した。そして、井上大仁(MHPS)が2時間8分22秒で日本人トップ、総合8位に入り、世界陸上ロンドン大会の有力な代表候補にに名乗りをあげた。

8人の先頭ランナーが、最初の5キロを14分14秒から16秒で通過した。まれにみるハイペースである。ちなみに、世界的な大会で最初の5キロが最も速かったのは、2009年ロンドンマラソンで走ったサムエル・ワンジル(故人、ケニア)の14分8秒だそうである。ただし、このときのワンジルは終盤に大きく崩れて世界記録にはならなかった。

東京マラソンでは、ケニアの選手たちもペースメーカーの速い入りに引っ張られるかのようにラップを刻んでいた。無理をしている様子は全く見られない。こういうときは、好記録が生まれやすい。テレビ中継のアナウンサーも「2時間を切るハイペース」と絶叫していた。たしかに、速かった。

ただし、驚異的なハイペースだったかというと、そうでもない。というのは、この大会は前半にハイペースで展開することが多いのである。なぜなら、初めの6キロで40メートル近く下るからだ。井上大仁や11位の設楽悠太(Honda)も最初の5キロが14分31秒だったが、これも冒険的ではあるが無謀とはいえないくらいの速さだった。二人は、次の5キロも14分40秒台をキープした。

設楽の走りで私が評価したいのは、15キロまでの5キロをキプサングよりも12秒速い14分32秒に上げたことである。この追い上げで先頭との差を10秒に縮めた。もし、その次の5キロで8人の集団に追いつくことができたとしたら、と期待を膨らませながらテレビに見入った。単独で先頭を追うよりもずっと楽に走れただろうし、後半の減速を抑えることにつながれば日本最高記録もついてくるのではないか、と。

さすがのキプサングらは、15キロ以降の5キロを14分30秒前後に上げ、設楽は少しずつ離れ始めた。設楽の世界トップへの挑戦は、ここで終わった。しかし、20キロまでは先頭の背中が見えるところでレースをしたという経験は大きな意味を持つ。それによって、次は30キロまで、そして35キロまでと、サバイバルレースができる距離を伸ばしていこうという気持ちが生まれてくるからだ。

東京マラソンの直前には、アメリカでトレーニングを積んでいる大迫傑(ナイキ・オレゴンプロジェクト)がボストンマラソンに出場するという記事を目にした。大迫は、昨年の日本選手権で5000mと10000mを制し、リオデジャネイロ五輪に出場したスピードランナーである。

設楽や大迫らの若いマラソンランナーの台頭が待たれる。

[PR]
by hasiru123 | 2017-03-02 20:05 | マラソン

レースをメチャクチャに

日本のマラソンは、長いトンネルから抜け出せないでいる。男子は14年間、女子は11年間日本記録が更新されていない。五輪でも、男子は1992年(森下広一が2位)、女子は2004年(野口みずきが優勝)以来3位以内から遠ざかっている。

そんな中で、少しだけ出口が見えてきそうな兆しがある。先の大阪国際女子マラソンで重友梨佐(天満屋)が、別府毎日マラソンでは中本健太(安川電機)が優勝を飾ったからだ。両選手とも2017年世界陸上の派遣設定記録には届かなかったが、まずはトップでゴールテープが切れたことを喜びたい。

1月15日の日経新聞に掲載された瀬古利彦氏(DeNAランニングクラブ総監督)と高岡寿成氏(カネボウ陸上競技部監督)へのインタビュー記事「マラソン日本 復活させるには」を読んだ。そこには、日本のマラソンの復活はあながち夢ではないと感じさるものがあった。

瀬古氏は「東京五輪の開催が決まったことでマラソンをやりたいという学生が増えた」、「マラソン強化のいいきっかけになった」と最近の動きに前向きの評価をし、高岡氏も「2時間11分でもいいレースをしたといえるものはある」語っていた。ただし、いまのマラソンの現状や選手の問題点については「選手の練習量が極端に落ちている」(瀬古氏)」、「ペースメーカーが30キロまで引っ張ってくれるので、そこからいかに落ちずに粘るかだけのレースをしている」(高岡氏)と手厳しい。

たしかに、最近の国内の主要マラソン大会にはペースメーカーがつくので、選手たちは安心して前半をカバーすることができる。一方では、選手の創意工夫や戦略性が見られず、面白みに欠ける。これだと、駆け引きをしながら競う五輪や世界選手権などには対応できそうにない。

しかし、四半世紀前に世界の高みを目指してマラソンに取り組む選手がいたことに気がついた。日本記録を更新したことのある中山竹通氏である。「自分にみたいに能力のない選手が勝つにはレースをメチャクチャにして他の選手にパニックを起こさせるしかない」。ノンフィクションライターの折山淑美氏が書いた『日本のマラソンはなぜダメになったのか』(文芸春秋)にあった。

所属先のダイエーが目指すのは1番で、2番や3番はいらないという会社だったから、2時間テレビ画面を独占することがマラソンで生きていく方法だった、と。

30キロくらいまでは集団のできるだけ目立たない位置で省エネに徹し、勝負所で初めてサバイバルレースに参加するというのが、これまでのマラソンのセオリーだった。高い身体能力を持った東アフリカ勢ならこのセオリーが最適だと思う。しかし、挑戦者の立場にある日本選手に求められるのは、中山氏のような高いモチベーションと大胆な戦略性ではないか。

面白いレースを見せてくれる選手の出現が待たれるところだ。

[PR]
by hasiru123 | 2017-02-16 17:40 | マラソン

小江戸川越マラソン

ネットの天気予報では、川越地方の午前9時ころは雨で9度、北北東2mと報じられていた。実際には、雨はなくときおり薄日の差す天気だった。走る選手にとっては絶好のコンディションだったといえよう。公認大会として3年目を迎えた、2016小江戸川越ハーフマラソンである。

この夏に、今年のメインレースはフルマラソンではなく、小江戸川越ハーフと決めていた。ところが、先にも書いたように足の状態が思わしくないため、欠場することにした。したがって、今日は選手たちの快走ぶりを写真に収めることに集中することにした。

私が選手たちを待ち構えていたのは、スタート地点から約1.2キロの交差点だった。まず、8時30分スタートの10キロだ。ズームアップした望遠レンズを覗くと、小高い坂の上から先導車と、それにつ続く2台の白バイが見えた。向かって左側に黄色のユニフォームがかすかに見える。数回シャッターを切ったところで、カメラの液晶モニターを見ると、3名の先頭グループが確認できた。黄色のユニフォームは、わが陸協に所属するY選手であることが分かった。あとで大会本部が発表するリザルトを見たら、3位入賞とあった。この場を借りて、Y選手の健闘を祝福する。

さて、8時55分にハーフがスタートした。5分後に姿を現したのは、白バイに続いて東洋大をはじめとする学生の一団だった。レンズがとらえた映像からは、箱根を目指す選手たちの厳しい表情がうかがえた。そして、第2集団が見えた。あとで撮った写真から分かったのは、集団にしっかりついている地元走友のF選手だった。リザルトで確認ところ、年代別のクラスで優勝とあった。その他にも何人かの知人が上位に入っていた。うれしい限りである。

来年も、ぜひ雄姿を見せてほしいと願っている。そして、私も来年こそはスタートラインに立てるよう体調を整えて、臨みたい。

c0051032_2184391.jpg

          ハーフを走る選手たち

c0051032_2194168.jpg

          10キロの先頭集団につくY選手

c0051032_21103573.jpg

          ハーフの先頭集団
[PR]
by hasiru123 | 2016-11-28 21:14 | マラソン

c0051032_17342829.jpg

早朝から深い霧に覆われたこの日、第16回坂戸市民チャリティマラソンが開催された。大会が行われた午前中は日差しがなく、この季節としては少し肌寒く感じられた。湿度は十分にあり、風はほとんどなかった。走る選手にとっては絶好の気象コンディションだったようだ。

今年の全体の参加者数は1,850人で、前年より約9%減少した。この日は、前週のさいたま国際と来週の小江戸川越ハーフに挟まれた上、上尾シティハーフと重なった。大会ラッシュの割を食ったといえるかもしれない。

開会式での大会会長の石川市長のあいさつで、近い将来にかつて開催されたのと同じ規模でハーフマラソン(過去に20回続いた坂戸毎日マラソンを指す)を検討している旨の表明があった。ハーフマラソンとなれば、近隣の大会との競合が熾烈となろう。開催時期や大会の特徴、規模などについて十分な検討を行い、埋没しないよう進めてほしい。

今回決勝審判を務めさせていただいて、気がついた点を二つ。一つ目は、フラフラの状態で入り、ゴール直後に倒れこむシーンが2回あった。途中で何らかの体調変化が起こったためかと思うが、無理を押してゴールまで走り続けずに、途中で休止する勇気と心の余裕を持ってほしいと思う。私は、これを「市民ランナーのセーフティ・プリンシプル」と呼んでいる。

二つ目は、例年ゴール付近は人垣が多く、コース内に立ち入らないよう規制することが役員の大きな役目でもある。今年は、その人垣が少なく感じられた。大会参加者の減少が影響していたかもしれない。それと、今回から大会参加者の駐車利用について事前申込制に変更されたが、私の勝手な想像かもしれないが、それが応援者の減少につながった可能性がないとはいえない。

二つ目の問題は、車を使わずに公共の交通機関を利用して会場に行けることが、ハーフマラソン実現への大きな試金石となるだろう。それは、参加選手の増加に加えて、多くの応援者に来訪してもらうことが、成功のカギになると考えるからだ。

(写真)10キロの部のスタートから 200m地点で
           

[PR]
by hasiru123 | 2016-11-20 17:24 | マラソン

マラソンランナーの死

「(中略)しかし自殺は逃避であると思います。彼は人生のレースで勝負することなく途中放棄したと私は思うのです」。こう書いてその死を惜しんだのはマラソンランナーの君原健二さんだ(『君原健二のマラソン』)。



自殺というのは、メキシコ五輪の年が明けた1月に命を絶った東京五輪のマラソン銅メダリスト円谷幸吉のことである。私がこの悲しい知らせを目にしたのは、高校の冬休みが明けて間もなくのことだった。ちょうど陸上競技に取り組んでいたときだったことから、よく記憶している。



最近になって、長年にわたってわからなかった日本のマラソンランナーの死の謎が浮かび上がってきた。東日本大震災で甚大な被害を受けた幸吉の長兄の家から、整理している中から幸吉の手紙の束が見つかったのである。

これまでに、東京五輪後に行った右足アキレス鍵と椎間板ヘルニアの手術がうまくいなかったことや、円谷の指導者であった教官が自衛隊体育学校長によって更迭されたこと、初恋の人との結婚が学校長の反対でうまくいかなかったこと。それに加えて、東京五輪以上の活躍が期待されていたことへのプレッシャーなど、様々な要因が言われていた。


これらの動機について、かなり鮮明な輪郭を描くことができたのが、雑誌「文芸春秋」10月号に掲載された「マラソン円谷/悲劇の謎が解けた」(松下茂典)と題するルポだった。数10通の手紙から、「かねてより取り沙汰された複数の動機が、図らずも幸吉直筆の手紙によって一つの真実となり、半世紀の長きに及んだ謎が解けた」。


このルポを読んで強く思ったのは、動機は一つではないとしても、一生に一度はだれもが抱くであろう怒りや嘆きが引き金となったのではないか、ということである。あれこれと深く言及することは、今後読まれる方の妨げになるといけないので、書かないことにする。




[PR]
by hasiru123 | 2016-09-18 18:59 | マラソン




リオ五輪が終わった。長距離種目については、男女とも世界の水準からさらに遠ざかってしまった、と思わせる内容だった。順位はともあれ、トップランナーが見える位置で戦うことができなかったからだ。

日本の指導者たちは一様に言う。トラック種目でスピードを強化せよ。その先に見据えるのがマラソンだ、と。はたして、そうだろうか。

マラソンのスピード化は、日本がマラソンの黄金期を迎えていた1980年代から言われていたことだ。さらにさかのぼると、1960年代に国際競技会に出場し始めたケニア選手たちが3000M障害で多くの好記録を作ったときにも、いずれこれらの次世代の選手たちがマラソンを走り、世界を牽引するに違いないと予感していたはずだ。

なぜ、スピード化に対応することができなかったか。それを顧みることから始めなければ、いけないだろう。

長距離走のスピードの基本は、当然のことだが800Mや1500Mの中距離種目だ。ところが、これらの種目は5000Mや10000Mに比べて、長きにわたって記録が低迷している。例えば、男子1500Mの日本記録は12年間更新されていない。高校男子に至っては、17年間も更新されていない。この分析と原因究明から始める必要があるだろう。

よく言われるのが、「日本の高校や大学の駅伝人気が、トラック競技の成長を妨げている」という論法である。たしかに、駅伝を目指して進学してくるアスリートは多い。それはそれで長距離の競技人口を増やす効果に貢献していることは間違いない。しかし、シーズンが冬場に限定される駅伝だ。この1点をもってスピード不足の責任を負わせるのは、少し違うような気がする。

箱根駅伝を目指して全国の高校から関東の大学に集まってくるように、中距離種目を目指して高校や大学に入ってくる仕掛けと動機づけが必要でなないか。

中距離走は長距離走に比べて、体内に乳酸が多く発生する。その意味では長距離走よりも競技時間が短いにもかかわらず、過酷な競技といえる。乳酸が溜まって動かない身体を酷使する練習に耐えることはつらいことだ。この試練を乗り越えるには、これまでと違ったコトやトレーニング方法で選手をやる気にさせる「何か」が求められよう。

問題は、その「何か」である。

箱根駅伝がこれほどまでに高校生選手たちを引きつけるのは、故郷を離れた選手たちを家族や親せき、地元の恩師や友人たちがこぞってテレビで応援し、見守ってもらえるからだ。人という生命体を動かす行動原理は3つあって、そのうちの「自尊心」は人を人たらしめるとても重要な動機である。明治大学教授の鹿島茂さんは、その著書『進みながら強くなる』の中で書いている。「人は、「ドーダ! おれ(わたし)って凄いだろ、どうだ! まいったか!」という自尊心の充足に向かうのですが、逆にみれば、これがすべての出発点である」「もし、人間に「ドーダ」がなかったら、科学者の偉大な発見も、芸術家の歴史的傑作も、起業家の社会を動かす大事業もすべてなかったかもしれない」。

箱根駅伝で、中継後に倒れ込むまで追い込むあの頑張りは、この「ドーダ」という自尊心の充足に他ならない。中距離種目に取り組む選手たちにも「ドーダ」を発揮する強い願望が生まれれば、多くの乳酸を発生させるきつい競技にもかかわらず進んでチャレンジする機運が生まれるのではないか。「ドーダ」と科学的なトレーニングが融合すれば、世界のトップランナーの背中が見えてくるに違いない。五輪を見ながら、そんなことを考えた。

(注)「ドーダ」は、東海林さだおさんの漫画に出てくるフレーズである。







































[PR]
by hasiru123 | 2016-08-27 11:30 | マラソン

東京、メキシコ、ミュンヘンの五輪男子マラソンに3大会連続で出場した君原健二さん(75歳)が、4月18日にボストンマラソンの120回記念大会を走るという。若葉グリーンメイトの総会資料に添付する今年度の練習計画表を作っていた1週間前に、「君原さん、半世紀ぶりにボストンマラソン挑戦」というニュースを目にした。総会で練習計画を説明した際に、ついでながら少しだけ寄り道をさせていただくことにした。

「歴史あるボストンマラソンから招待状、なんと光栄なことだろう!」。

そのとき、思わず快哉を叫びました。そして、思い出したのが次の言葉でした。

Luck is a matter of preparation meeting opportunity.
準備万端の人にチャンスが訪れることを幸運と呼ぶの(オプラ・ウィンフリー/米国の女性テレビ司会者、女優、1954年~)。

私が君原さんの世代になったとき、ボストンから招待状が届くということはないにしても、仮に招待されることがあったとしたら、いつでも42.195キロを走れる備えだけはしておきたいと思っています。招待状を紙くずにしないために。

君原さんは、トップアスリートとして走ることを仕事としていた「職人」です。現役時代に35回のフルマラソンをすべて完走したという実績がそれを証明しています。そして、現役を退いた後も、市民ランナーとして走ることを生活の中にきちんとはめ込んでこられた稀有のランナーといっていいでしょう。

ボストンの知らせを聞いて、私は君原さんの背中を見ながら、これからも走り続けたいという思いを新たにしたところです。
[PR]
by hasiru123 | 2016-04-19 06:52 | マラソン

今回は、大阪女子国際マラソンで優勝した福士加代子(ワコール)が名古屋ウイメンズマラソンへのエントリーを表明し、騒動になった。結果的には、名古屋への出場を取り下げた。

「五輪へ何としてでも出場したい」という選手からすれば、リスクを承知の上で名古屋へ出場して代表を確実なものにしたいと考えるのはごく自然な心情だと思う。陸連が決めた選考基準を読む限りは、大阪女子の結果をもって即内定とはならないのは明らかであるからだ。

今回のトラブルを意識してかどうかは定かでないが、選考結果の発表の翌日に日本陸連はそのウェブサイトに「マラソン日本代表記者発表会詳細」として、選考の手順や選考理由、選考要項説明、代表選手発表などを詳細に報じている。これまでに見られないかった取り組みとして評価していい。

ここで、昨年6月に陸連が決めた「選考要項」を整理すると、以下のようになる。

①代表は男女とも最大3枠。補欠は選考しない
②世界選手権(8月、北京)で入賞した日本人最上位者には内定を出す
③国内の選考3大会は、それぞれ日本人3位以内に入ることが選考対象の条件
④その中で陸連設定記録(男子2時間6分6秒、女子2時間22分30秒)を突破した者がいれば1人を優先的に選出し、残りは順位やレース展開などから総合的に判断する
⑤複数の選考会に出場した場合、2回目でも設定記録を破れば有効

フリーライターの松原孝臣は「Number Web」の3月14日号でこう書いている。

「(前略)それでもここまでこじれた原因は、ハイレベルな派遣設定タイムを設けその重要性を打ち出したことで、代表内定への明確な道筋があるかのように見せたことだ」

「もっと言えば、選考側への不信感だ」とも言っている。この文脈の意味するところは、上記の④に関係がある。「1人を優先的に選出」とあるが、派遣設定記録を超えても男子なら最終選考会のびわ湖、女子は名古屋の結果を待たないと、内定はもらえない。つまり、最後の大会が終わって派遣設定記録を超えた者のうちのトップであることが確認できて初めて「優先的に選出」されるのである。

選考方式の是非は別として、たしかにこの選考要項に不整合はない。しかし、選考方式が複雑であればあるほど関係者への周知と説明が重要だ。選考する側と選手の信頼感があってこそ、次のレースにつながるからである。

今後も五輪や世界選手権の代表選考に際しては、複数の大会から結果を総合して大会から結果を総合して複数選手を決めるやり方は変わらないと思う。なぜなら、順位や記録などで一発選考で決めるやり方はわかりやすいというメリットは大きい反面で、五輪の前年に開催される世界選手権を対象から外せないことや主催新聞社との関係で一本化が困難であるなど、デメリットも多いからだ。

昨年6月の「選考要項」公表時に、ウェブサイト等を通して詳細説明がていねいに行われていれば、今回のトラブルはなかったかもしれない。マラソン以外の競技で一発選考方式を採用して定着した例はある。たとえば、アテネ五輪以降の競泳がその一つである。それらの取り組みも参考にしながら、より透明性の高い選考手続きを進めてほしい。
[PR]
by hasiru123 | 2016-03-20 07:15 | マラソン

カワセミ街道を走る

若葉グリーンメイトの役員会と高校の陸上部のOB会総会のご案内をいただいていたが、昨日はそのどちらも欠席させてもらった。申し訳けなかったが、先に日高かわせみマラソンの10キロの部に出場を決めていたからである。

個人レースとしては1年3ヶ月ぶりのことだ。右足の故障が再発しないかという懸念を振り払うことと、現在の走力を確かめ、来季の目標作りに生かしたいというのが狙いである。いわば、試運転である。

結果から言うと、まったく足の違和感はなくゴールすることができた。全体をとおしてイーブンペースで刻むことができ、後半にさしたる失速がなかったことは収穫だった。欲を言えば、4年前に同大会を走ったときの記録にもう少し近づけたかったのだが、それは来年の同大会までとっておくことにしたい。

それにしても、スタート時(11時)の気温が約6度と、この時期としてはとても寒いコンディションだった。薄手の手袋を着用したが、ゴールしたときはすっかり指がかじかんでいた。

高麗川に沿って伸びる通称「カワセミ街道」をひた走るコースで、高麗神社をスタートし、2か所で折り返して戻ってくる。日高市は自然にあふれた丘陵地で、奥武蔵方面から下る高麗川ではたくさんの野鳥を観察することができる。カワセミは水辺に棲む美しい鳥だ。清流を誇る高麗川流域には多く生息することから、日高市の鳥となっている。コバルトブルーの背とオレンジ色の下面。その可憐な姿をこの地で観ていないのが残念だ。

高麗神社は、これまで山道を走るトレーニングの基地として利用してきたが、社殿は素通りばかりで失礼の連続だった。高句麗からの渡来人高麗王若光が建都したのが霊亀2年(716)という。帰りには、1300年の歴史に思いを致し、参拝させていただいた。
[PR]
by hasiru123 | 2016-03-14 19:51 | マラソン