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剱岳 点の記

劒岳―点の記 (文春文庫 (に1-34))

新田 次郎 / 文芸春秋


「いままで、せいぜい2ミリか3ミリの変化しかなかったのに、一度に5ミリの気圧の上昇を見たのである。柴崎は昂奮した。気圧計を革のケースにしまうと、彼は天幕の外に出た。雨は降っていた。その振り方もいままでと特に違ってるようには見えなかった」

『剱岳 点の記』の測量隊が最後の撰点を翌朝より行うことを心ひそかに決めたことを描写したシーンである(文春文庫281ページ)。そのことを知っているのは陸軍参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎と案内人の宇治長次郎だけである。

剱岳への登頂と三角点埋設の至上命令を受け、同時期に結成された山岳会隊に遅れをとることなく成功させなければならない。そして、的確なルートを見つけ、誰よりも早く達成させなければならない。あせってフライイング(山岳会隊に情報が漏れたり、天候判断を誤ったりすることを指す)してしまいそうな中で、隊員たちは実行の日を心待ちにしている。そんな雰囲気は、ちょうど駅伝かマラソンの号砲が鳴る前日の監督と選手たちの重苦しい気分に似ていまいか。

先ごろ公開された映画では、その辺の心理をどんなふうに描いているだろうか、というのが私の大きな関心事だった。観た限りでは、そういった浮き足立った雰囲気は映像からは、あまり伝わってこなかった。小説と映画の表現方法の違いによるところが大きいのかもしれない。

映画では、小島烏水率いるところの山岳会との競争意識や測量隊内部の反目、国防のために日本地図の完成を急ぐ「陸軍の威信」などをを浮き彫りにすることに力点をおくあまり、やや不自然と思われるシーンもあった。しかし、そういったマイナスを打ち消すに十分な見事なカメラワークに感動した。自然の厳しさ、人との関係、対象に向かう人の勇気など、美しく描かれていた。2度にわたる滑落シーンや猛吹雪、剱岳直下の鞍部から岩壁をはだしで登る長次郎。山岳撮影の白眉といっていい。

剱岳登頂後に何があったか。これもこの作品の重要なテーマだが、これについて書くことはフライイングになるような気がするので、読んで(または観て)いただきたい。

私事であるが、紅葉の仙人池から望む剱岳を撮りたいと思って10余年が立つ。だが、奥深い山容に入り込むための日程がとれず、いまだに実行に至っていない。柴崎測量官の志に思いをいたし、あらためて挑戦してみようという気持ちになってきた。
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by hasiru123 | 2009-07-26 21:58 |  

パラダイムの変換

「乳酸は疲労物質ではない」という見解について、雑誌「ランナーズ」8月号と「ランニング学研究」第21巻第1号でたまたま同時期に読んだ。運動生理学の専門家にとっては常識に属することかもしれないが、私にとっては初めて知るところとなった。
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「ランニング学研究」で発表した八田秀雄氏によると、「ランニングの疲労は多くの原因によっていて、特に長距離走の場合は乳酸以外の要因を考えたほうがいい」書いている。さらに「マラソンの疲労は乳酸蓄積が原因ではない。それどころか糖がないので、そのことで乳酸ができないから疲労する」。つまり、「乳酸は疲労の原因ではなく結果である」と主張する。


「ランナーズ」で「運動生理学で「走り」の不思議を解き明かす!」を連載する伊藤静夫氏は、乳酸についての「パラダイム変換が、アフリカランナーの強さの秘密を解く鍵になる」して、3つの新説を紹介している。一つ目の「乳酸シャトル(運搬)説」は、「速筋繊維でつくられた乳酸が、遅筋繊維へ運ばれ、そこで酸化され完全燃焼される。<燃えかす><老廃物>と考えられていた乳酸が、実はさらに燃料として再利用されている」というのである。

ランナーズ 2009年 08月号 [雑誌]

ランナーズ


昨年9月のベルリンマラソンで、驚異的な世界最高記録を作ったハイレ・ゲブレセラシエの後半の強さには、糖質を利用する手段としての乳酸シャトルの働きがあると見る。前半より後半が速くなるペースアップ型のことを「ネガティブペース」と呼ぶのだそうだが、ゲブレセラシエに限らず、概ね国内の男子マラソン大会で優勝を勝ち取るアフリカの選手たちは、後半、特に30キロ以降の終盤に大きくペースアップすることが多い。そのスピードの解明に、走るエネルギー機構についての研究が欠かせない。

少し古いテキストだが、宮下充正氏の「トレーニングを科学する」(NHK市民大学、1988年)によると、球技でのハイ・パワーの持続についての解説の中で、「素早い攻撃や防御の行動がとれる選手は、たくさんの乳酸を産出する能力と同時に、乳酸を除去する能力も有しているとみられる」と書かれている。この時点ではまだ、乳酸はいかに除去されるべきかという視点からの研究だが、パワートレーニングのタイプと乳酸発生のメカニズムに注目している意味では、「除去」から「利用」への萌芽が見られるように思う。

選手のDNAや生まれた環境はいかんともしがたいものがある。しかし、乳酸の再利用で体内のエネルギー革命が推進されれば、マラソンでいえば35キロ以降の勝負所でしっかりスピード対応ができるトレーニングが開発され、日本にも再びマラソン王国と呼ばれる日が来るかもしれない。
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by hasiru123 | 2009-07-20 11:06 | 基礎知識  

陸上日本選手権から

今年の陸上日本選手権大会は、男女とも短距離種目に注目が集まった。男子100mの塚原直貴(富士通)と女子100mの福島千里(北海道ハイテクAC)は、予選を好記録で通過したもののアクシデントがあって、決勝を棄権した。二人とも、予選での調子がよすぎたかもしれない。

今回の大会の印象を一言で言うと、勝負へのこだわりがこれまでになく強く出ていたことだ。各種目とも、今までとは一味違う緊張感のようなものを感じた。それは、おそらく8月にベルリンで開催される世界陸上の選考方法を少し変えたことによる。これまでは、A標準をクリアしていて日本選手権に優勝すれば自動的に代表に決定されるという決め方が多かったが、今回はAおよびB突破者で優勝すれば代表に決定、という条件に変えた。

「Aのみ」と「AおよびB」では大差ないように見えるが、選手へのインパクトがかなり異なる。種目によって状況はちがうが、日本では概ねA突破者は少数で、日本選手権で即決定できなくて、大会後にB突破者から選考されることが少なくない。優勝すれば、Bでも即代表に決まるというのは、選手にとっては目標がそれだけ近くなって、個々のモチベーションを上げる効果を発揮した、と私は考える。ハードルを高くするだけでなく、少し低くすることによって、選手のやる気を引き出す方法もあるのだな、と感じた次第である。

長距離種目では、3日目の女子5000m決勝をテレビで見た。10000mで苦杯をなめた中村友梨香(天満屋)が優勝した。レースはややスローペースで展開し、中村が前半からレースを引っ張って、最後まで持ちこたえた。もっともスピードのある小林由梨子(豊田自動織機)や初日の10000mを制した赤羽有紀子(ホクレン)、ベテランの福士加代子(ワコール)などを抑えての勝利は見事であった。中村は、ラストの1000mを2分57秒で押している。スピードもしっかりついてきたということがいえるだろう。

中村はその後、中7日で札幌国際ハーフマラソンにも出場し、優勝を飾っている。北京五輪のマラソン代表で、マラソンを視野にスピードトレーニングを続けていると聞く。トラック種目での世界陸上代表の経験を、ぜひマラソンのステップアップにつなげてほしい。一方、赤羽はすでに世界陸上のマラソン代表に決まっている。日本選手権で見せたラストの伸びのあるスプリントは、日本人のマラソンランナーとしては稀有の資質だといっていい。スタミナとスピードを兼ね備えた新しいタイプのマラソンランナーが、日本にも多く輩出することを期待している。

日本選手権についてひとこと。3日目と4日目がテレビ中継されたが、長距離種目で見ることができたのは、3日目の女子5000m決勝のみであった。日程やタイムテーブル等の問題でやむをえないのかもしれないが、男子については、1種目くらいは中継の枠に入れてほしい。世界のトップから大きく水を開けられているとはいえ、レースを見て発奮する若い選手も多くいると思うのだが。

<参考>女子5000におけるトップのラップタイム(スプリットタイム)
1000m   3分04秒
2000m   6分11秒(3分07秒)
3000m   9分21秒(3分10秒)
4000m  12分28秒(3分07秒)
5000m  15分25秒31(2分37秒)
*記録はすべて中村。
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by hasiru123 | 2009-07-12 22:02 | 話題  

金哲彦著『からだが変わる体幹ウォーキング』を読む

からだが変わる体幹ウォーキング (平凡社新書 466)

金 哲彦 / 平凡社


トマのオペラ「ハムレット」から<オフェーリアの狂乱の場>を聴いた。歌うのは、筆者の地元出身のソプラノ歌手藤田美奈子さん(注)だ。この作品は、コロラトゥーラと呼ばれるソプラノの一番高い声部で歌うもので、生で聴いたのはこれが始めである。

コロラトゥーラとは、速いフレーズの中に装飾を施し、華やかにしている音節のことだが、小柄な歌い手のどこからそんな高い声を発しているのかと思う。まるで、喉を通り越してお腹の中からカラカラという音が聞こえてくるようだ。

私の想像は、こうである。その美しい声の源は、肩の力を抜いてまっすぐ立ったところから発生する「正しい姿勢」にあるのではないか。パワーに頼らず、無理がなく、体の全体から自然に、声が出る。実にカッコいい。

彼女の歌に酔いながら、数日前に読み終えた『からだが変わる体幹ウォーキング』を思い出した。歩くことの基本原理は歌うことと共通する点が多いように思える。著者のいう「正しく」歩くことは「ムリのない」「自然な」歩き方という意味で、「あまり力を使わずにラクに歩ける」ことだ。

本書では、正しく歩くためのステップとして、正しい姿勢で「立つ」ことの説明に多くのページを割いている。自分の形として定着してしまった悪い癖があれば、正しい立ち方にリセットしようとして、以下の3点を意識することを提案する。

①「丹田」を意識すると安定する
②少し胸を開き「肩甲骨」を寄せる
③「骨盤」を前傾させる

これらはいわゆる身体の胴体部分のことで、「体幹」と呼ばれる。著者は長距離走の選手経験から「よりラクに走れる方法」研究してきたが、その基本原理はウォーキングにも当てはまるという。それが、いわゆる「体幹」を使った走り方であり、歩き方なのだ。「体幹」というのは、著者の学生時代の先輩に当たる瀬古利彦さんが書いた『マラソンの神髄』でも「フォームは体幹でつくる」として、長距離走で重視されてきた。ただし、体幹とは何か、体幹を鍛えるということは何をすることかなどについて、一般のランナーにとってわかりにくいところでもある。

本書では、ウォーキングを通して体幹について具体的、かつ平易に解説してくれる。腕や足に頼るのではなく、体幹を使う。このことを基本に歩き出せたら、走る世界も見えてくる。


(注)藤田美奈子さんの公演を聴くのは、一昨年に続いて2度目である。第1部はポピュラーな日本歌曲とカンツォーネ、そして第2部ではドニゼッティやプッチーニ、ビゼーなどのオペラから代表的な作品を聴かせてくれた。また、ゲスト出演した西村悟さんのテノールも素晴らしかった。
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by hasiru123 | 2009-07-05 23:37 |