夢のマラソン

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『長距離走者の孤独』を読む

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

アラン シリトー / 新潮社


「競争をやる連中の中でも、おれひとりだけじゃないだろうか、考えることに忙しくて、走っていることも忘れてしなうなんてなんて走り方をするのは」「それにどういうわけか、競争していることを忘れ、走っていることも忘れててくてく歩きをやって行くようになると、いつも勝つことがわかっていた」。主人公のコリン・スミス少年が、走ることについて思いを語るくだりである。

レース中に、走ることに夢中になって頭の中が真っ白になったり、周りの風景がほとんど目に映らなかったりする経験はよくあることだ。ところが、スミス少年の場合はその反対なのである。クロスカントリーの代表選手として感化院の院長らから1位でゴールすることに期待をかけらる。しかし、彼がとんなに速くてもアスリートでないことは、読み取れる。

全英長距離クロスカントリー競技の大会。スミス少年は、終盤2位以下に大差をつけてゴールに飛び込もうかというところで、1位になることを拒否する。「今や観覧席では紳士淑女連中が叫び、立ち上がって、おれに早くゴールへはいれとさかんに手を振っているのが見える。「走れ! 走れ!」ときざな声でわめいてやがる。だがおれは、目も見えず耳も聞こえずまるで阿呆みたいにその場に立ったきりだ」。

感化院の院長は「誠実であれ」というが、彼はその言葉の裏にある偽善に気づいている。院長は、ボースタル・ブルーリボン賞杯がほしいだけなのだ、と。偽善者たちの作ったさまざまな規制や障壁に対する怒りと反抗に満ち満ちている。それも、「目には目を、歯には歯を」といった単純な反旗ではなく、もっとクレバーなやり方で。私は読み進みながら、この想像力巧み徹底抗戦に、思わす快哉を叫んだものである。

訳者の河野一郎氏の解説によると、著者のアラン・シリトーはイングランド中部の工業都市ノッテンガムに生まれ、作品中にも同地方の方言が随所に出てくるという。たとえば「太鼓腹で出目金の院長野郎」とか、「奴はドアの釘みたいに死んでやがるんだ」「奴はふうてんだから気がつかきゃしないだけ」といったの院長に対する当てつけの表現は、もしかしてノッテンガム方言で語られたフレーズの一部かもしれない、などと勝手に想像している。

非行少年スミスは、感化院にいながらにして大人たちの報復やいじめから遠いところに飛び出した。たまたま長距離走に長けていたという強みを発揮して。もし、いじめに遭って行き場を失ったとき、物理的にだけでなく、精神世界においても、巧みに逃げ延びる術を見つけてほしいと、この本に書いてあるような気がする。
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by hasiru123 | 2012-08-26 20:12 |

対抗戦方式に学ぶ

ロンドン五輪の日本は、金メダル7、銀14、銅17で、合計38個のメダルを獲得した。新聞等では、金メダルの数を基準に11位と報じている。この報道に仕方には2つの点で問題がある。

一つは、国と地域の間でメダル数を競うことについての報道のあり方である。2つ目は、比較に際して、金メダルという物差しで評価して一喜一憂している姿勢である。

まず、国と地域でのメダル数獲得競争。五輪憲章にはこう書かれている。「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(第1章オリンピック・ムーブメントとその活動)。国家間の競争ではないとしているのに、JOCは今回の目標を「金メダル数で世界5位以内」とし、報道機関も連日大きく「国別メダル表」を掲載していた。

これほどまでにはっきりした本音と建前との逆転現象は珍しい。メディア的な表現を借りれば「報道機関はJOCに追随した」と言えるだろうし、歯に衣着せぬ言い方をさせてもらえば(自分で言うのもヘンだが)「メデイアはメダル競争をあおっている」。それでは、なぜ「選手間の競争」を「国家間の競争」に持ち込むのか。

五輪憲章が建前であるなら、死守しなくてはいけないものばかりとは考えないが、超えてはならない一線というか節度のようなところがあってもいいのではないかと思う。たとえば、選手強化の目標を立てるときに、前回との比較の目安にすることはあってもいい。確かに、具体的な指標がないと強化策が見えてこないということはあるだろう。さらに、国民的な関心も選手の活躍とともに、競技全体の成長度にあることは間違いない。しかし、「金メダル数で世界5位以内」はやりすぎである。五輪は、国家間の競争ではないのだから。

次に、国と地域の成果に対して金メダルという物差しで評価することの妥当性である。私は、JOCはどうであれ、メディアは進んで金メダル数至上主義を捨てることを求めたい。そこで、評価の指標を変えてはどうだろう。

たとえば、陸上競技の場合だと日本インカレを始めとする対抗戦方式の競争については、各種目の順位を得点化して、その合計で競っている。今年9月に行われる同大会の要項にはこう記載されている。「表彰 1)得点方法は各種目とも、1位8点、2位7点、3位6点、4位5点、5位4点、6位3点、7位2点及び8位1点とする」。インターハイやその他の競技会もほぼ同様の決め方だ。

この手法だと、高順位ほど得点が高く、しかもメダル獲得者だけでなく、入賞者まで評価が及ぶため合理性があり、納得性も高い。メダル獲得者に対してはもっと高い評価を与えたいのであれば、得点に格差をつけてもいいかもしれない。ただし、これも国家間の競争ではなく、選手やチームを強化する上で前回と較するという視点から使うのである。

五輪の楽しみ方を多様なものにするためには、国家間の競争はない方がいい。
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by hasiru123 | 2012-08-19 21:19 | その他

考えるヒント

マラソンの君原健二さんは、64年東京五輪で8位となり、続く68年メキシコ五輪で銀メダル、そして72年ミュンヘン五輪では5位に入っている。文字どおり五輪に賭けた人生だったのではないかと思うが、ご本人は「あのとき、こうしておけば良かったと考えることはない。3度とも、悔いはないからだ」と日本経済新聞で8月1日から連載中の「私の履歴書」に書いている。

初マラソンで日本最高記録を出すなど、走るごとに周囲の期待を膨らませて臨んだ東京五輪では、自己ベストタイムから4分近く及ばない8位だった。このときは、円谷幸吉が銅メダルに輝いている。君原さんは振り返って、「それでも私は、それぞれがその時点の自分の実力だと受け入れた」と心境を語っている。「私に誇る何かがあるとしたら、フルマラソンの途中棄権が1度もないことかもしれない」。競技者として引退するまでの12年間に35回のフルマラソンを走り、すべて完走しているからだ。

ロンドン五輪がもうすぐ終わろうとしている。期待通りの活躍を見せて見事メダルに輝いた選手がいれば、持てる力を発揮し切れずに敗れた選手もいる。メダルを取れても、金でなかったことを悔いる選手も少なからずいた。確かに、1位以外の選手は、最後には敗者となる。一人の勝者とその他の敗者だ。ということであれば、五輪に出場した99%以上の選手が何らかの意味で涙をのんでいることになるかもしれない。

この2週間、「悔し涙」を流すシーンは何回となくテレビの画面で見てきた。例えば、男子110メートル障害予選。スタート直後、1台目の障害を超えるときににアキレス腱を痛めて、障害を引っかけて転倒した劉翔(アテネ五輪金メダシスト、中国)がいる。忘れられないシーンの一つだ。勝負に対する真剣さと敗北の無念さ。わずかなミスや不調が勝敗を分ける非情さ。そうした選手の一挙手一投足に、片時も目を離せなすことができなかった。

君原さんのことに話を戻すと、もっとよく知りたいと26年前に出版された『君原健二のマラソン』(ランナーズ発行)を読んでみたら、こんな件(くだり)が眼に止まった。「そこ(選手村)を私はなんとも言えない解放感に満たされて走っていました。手足が不思議なほどのびのびと自由に動きました、それまでの陸上競技生活では味わったことのない楽しい、さわやかなジョッグでした。ランニングを始めて十年目に走る喜びを知ったとき、(東京)オリンピックが終わっていました」

五輪から解放された選手は、こうした先達の声に耳を傾けてみるのも、明日を考えるヒントになるのではないだろうか。
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by hasiru123 | 2012-08-12 17:19 | マラソン

自滅の道

冬の五輪の場合には二つの方向に分かれていくようになった。それは、あくまでもスポーツの領域にとどまるものと、曲芸的な世界(サーカス的な世界)へ飛び出していくもの、である。前者はクロスカントリーとスピード・スケートだけで、後者はそれ以外の種目、たとえばフィギュアスケートやジャンプ、アルペン、フリースタイルなどである。そう書いたのは沢木耕太郎だ(『シネマと書店とスタジアム』)。

夏の五輪だったらどうだろうか。これらの二つの方向以外に、判定の世界(アナログ的な世界)をに加えたい。曲芸的な世界もそうだが、体操やシンクロナイズドスイミングなどのように審判による採点が勝負の行方を左右する競技である。最近は、柔道などの格闘技もその傾向が強くなってきた。

審判による厳正な判定に基づき、公正な闘い方を旨とするもので、スポーツマンシップの鑑(かがみ)みたいなものである。しかし、人による誤審や悪意ある判定によって、スポーツの興味が台なしとなることもある。

ロンドン五輪の柔道男子で起きた。66キロ級準々決勝でのチョ・ジュンホ選手との対戦で、判定が覆り、海老沼匡選手が勝利をものにした。最初はチョの青3本があがったが、審判委員の指摘で判定がやり直された結果、海老沼の白3本へと覆ったものだ。一度は、負けと判定されたものが、再判定で、一転勝者となった。

このような誤審がなぜ起こり、いとも簡単に判定が覆ったのか。そして、柔道男子の篠原信一監督がスタンドから大声を上げて激怒する姿はテレビの画面からよくわかったが、審判団に公式に抗議や説明を求めたのだろうか。わからないこと尽くめの試合だった。

判定の世界では、極端な場合にはこのような事態を招くこともあることを知った。スポーツを楽しむことに徹するのであればこの方向を目指す競技があっても何ら問題はないが、国家間でメダルの数を競う近代五輪(?)には向かないのではないか。

たとえば体操。技術力や美しさを競うことはできるが、それは審査委員が判定するのではなく見る人が自由に判断すればいいことだ。審査委員が、一定の評価基準をクリアしているというお墨付きを与えるくらいのことはできると思うが。スポーツの競技というよりも競演に近い。そして、格闘技が明らかに「競演」の世界に足を踏み出している。メダル競争と五輪は自滅の方向へ向かって歩んでいるように思えてならない。
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by hasiru123 | 2012-08-05 23:23 | その他