旅の途中に

数々の警句で知られるサミュエル・ジョンソが残した言葉に「幸福とは旅の終わりに行き着くものではない。むしろ、旅の途中のことである」と言うのがある。これを読んだ私はこう言い換えてみた。「走る喜びとはレースの結果に行き着くものではない。むしろ、日々走る途中のことである」と。プロとアマとを問わず、走った結果にから生まれた記録よりも、結果を生み出した過程に意味があり、振り返えったときにわくわくするのはこちらの方である。

記録の満足は一時的で、他者の記録と比較することによって簡単に陳腐化してしまう。しかし、過程(旅の途中)の満足は持続性があり、想像力を働かせることによって拡大再生産される可能性も十分にある。そして何よりも、どんな過程であっても一人ひとり違う満足がある。日ごろ走り続けることができるのは、このような満足に支えられているからではないだろうか。

走ることはとの過程を楽しむこと。そう、何か、人生と似ていないだろうか。

昨日と今日は、全国で多くのランニング大会が開かれた。RUNNETから集計したみたら、この2日間で41大会あって、そのうちフルマラソン(リレー方式を含む)は12大会あった。来週の12月1日も34大会あって、フルマラソンが4大会。

 

私の住む川越市でも、今日は第4回川越小江戸マラソン大会が開かれ、1万人のランナーが蔵造りの街並みを走り抜けた。いつもなら、大会運営のお手伝いをさせていただくところだが、23日に福知山マラソン(今年は中止)への出場を予定していたため、今回は失礼させていただいた。旅の途中に、少し寄り道。 

秋たけなわ、大会ラッシュの季節でもある。


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by hasiru123 | 2013-11-24 23:45 | マラソン

市民マラソンの活用

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11月17日(日)に、第13回坂戸市民チャリティマラソン大会が坂戸市市民総合運動公園を発着点として行われた。この日の気温は約15度、無風に近く、ランニングには絶好のコンディションとなった。10キロをはじめとする5種目で合わせて約2600名のランナーたちが汗を流した。

私の所属している若葉グリーンメイトや坂戸陸協の選手たちも多くこれに参加し、中には優勝した選手もおられた。今年の特徴は、多くの大会記録が生まれたことだ。ロードレースシーズンンは開幕したばかりである。来年の4月上旬位までは、各地で市民マラソン大会や駅伝大会が開催される。楽しく、そして安全にこの半年間を乗り切っていただきたい。

例年この大会は役員として参加しているが、今回は決勝審判員を務めさせていただいた。同じ決勝審判員としてご一緒したある役員は、地元の高校で教鞭をとっておられる方だった。その学校では、毎年校内ロードレース大会としてこの大会を利用しているそうだ。なかなかうまい方法だと思う。

町なかの学校は、交通事情で独自のロードレース大会を行うのが難しくなっている。道路を使用するからには警察の協力を仰がなくてはならないし、先生たちも準備や安全対応に追われ、大変である。既存の大会を利用できれば、交通の安全問題は解消できる。そして、校外のランナーと一緒に走ることにより、日頃走っていない生徒にとっては、長距離レースに親しむいい機会となるだろう。長距離を専門にやっている生徒にとっては、力試しにもなる。

何千人ものランナーが一斉にスタートするビッグな大会は、この趣旨に応えることは難しいと思うが、坂戸マラソン程度の中小規模の大会は好都合だ。これをきっかけに走る楽しさを発見し、生活の一部になってもらえればうれしい。

町のロードレース大会は、たいてい5キロ前後の比較的短い距離の部門を設けていることが多い。大いに活用して、マラソンの雰囲気を満喫してもらいたい。


(写真)10キロ部門のゴール
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by hasiru123 | 2013-11-19 07:09 | マラソン

レンズから覗いた第九

こう言っては指導してくださった先生に対して礼を失することになるかもしれないが、私が高校生のときの音楽の時間は常に低音部だけを歌わされていた。入学して最初の音楽の授業で歌うパートを決めたときに、私はバスに割り振られた。以後、合唱するときは常に低音部を歌うことになる。

バスとは、低い音域を持つ歌手や楽器をさす。合唱などでは最低声部の進行を受け持ち、主旋律を和声的に支える基礎となる重要なパートである。各パートが支えあってこそ合唱が成立する。 そうは言うものの、主旋律を堂々と歌えるテノールがうらやましかった。バスやバリトンが担当する低音部は地味な存在で、面白さに欠けるのだ。

そのバスだが、私の声は生来声域が狭く張りがない。だみ声で、少し音域を上下するような場面ではすぐに音をはずしてしまう。主旋律を和声的に支えたとはとうてい思えない。今は、数曲のカラオケを歌っただけで、翌日はのどがかれてしまう。

先ごろ、「第九の夕べin喜多院」の関係者が集まって、慰労会を兼ねた反省会があった。音楽総監督を務められた宮寺勇さんも出席されていて、話す機会があったので早速伺ってみた。

「先生のような伸びのある大きなお声は、音楽をやられていたことから培われたのでしょうか。それとも、そのようなお声を持っていらっしゃったから音楽の道を進まれたのでしょうか」
先生いわく、
「あなたは日ごろ走っているから、普通の人よりも下半身が鍛えられているはずだ。下半身がしっかりしていないといい声は出ない。だから、あなたは声の発生方法の基本を学べばきっといい声になるはずだよ」
と、うれしい励ましのお言葉をいただいた。さらに、
「あなたの声はバスではない。テノールだよ。バスに振り分けた先生が間違っている!」
と意外な返事が返ってきた。そうなのだろうか?もしかしたら・・・。

高校生のときは1クラスに男子が50人近くいて、芸術科目の時間は2クラスが一緒になって音楽を選択した生徒が音楽室に集まる。限られた授業時間の中で、教師が生徒の歌う声を聞いてあわただしく振り分けていく。そのときに、私の声を聞き違えたのかもしれない。あるいは、「バスやバリトンは少ないから、やや低めのテノールだったらバスを経験させるのもいいかもしれない」などという教育的な配慮(?)もあったかもしれない。

話はそれたが、今回の収穫は「きちんとトレーニングをすれば張りのあるいい声に生まれ変れる」ということを教えてもらったことだ。それが可能になれば、かりに宴席でカラオケのマイクを振られたとしても、臆することなくマイクを受け取ることができるかも。

ところで、この日の代表朝日明さんの話では、最近になって全国の各地から「地元の人たちで歌う第九のコンサートを開きたいがどうすればいいか」という問い合わせが寄せられていると言う。喜多院で行っている第九は、ある意味では市民合唱の先駆的なものである。出席者からは「地域住民で歌う第九として、ギネスブックに載せてもいいくらい」と言う声も聞かれた。地元の約100名の団員に加えて、その2倍近い市外からの参加者がいた。遠くは沖縄からも参加されたそうだ。
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私はこの会には途中からの参入組みで、歌うことはしていないが、年々充実したコンサートを行えるに至った要因を次のように考えている。 要因は多々あると思うが、その一つとして「演出力」をあげたい。
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300名近い大合唱団と小学生合唱団、そして多彩なプロの声楽家によるソロと合唱。そして、オーケストラ役を二人で見事にこなしたエレクトーン演奏。楽しさと新鮮さ、芸術性のバランスをうまくとり、2時間をあきさせない構成になっている。アマチュアとプロの競演という試みも、全体の雰囲気を引き締めている。簡単ではあるが、これがレンズから覗いた私の感想である。


(写真上)慰労会兼反省会
(写真下)第九の合唱
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by hasiru123 | 2013-11-12 07:23 | 芸術

夏の日の思い出

先日、元巨人監督の川上哲治さんが亡くなられた。93歳だった。川上さんが監督をしていたときは、王や長嶋が活躍していた時代だ。その訃報を聞いて、ふと、子供時代の夏の晩にテレビでナイター中継を見ていたときのことが思い出された。

天覧試合の巨人-阪神戦で、終盤に長嶋がホームランを打って勝負に決着をつけたことがあった。また、水原茂監督(故人)の時代に、川上さんは巨人のコーチをやっていた。国松選手が満塁サヨナラホームランを打ったときのことだ。国松選手が3塁を回ったときに、3塁コーチスボックスに立っていた水原監督が(そのころは監督がコーチスボックスに立つことがよくあった)感極まって国松選手の背中に飛び乗って、おぶさるような格好でホームインしたことを思い出した。

これらは、いずれも家族4人で小さな丸いちゃぶ台を囲んで、父はビールを飲みながらするめなどをかじり、ナイター観戦をしていたシーンだ。私がそういうことを覚えていたということは、きっと私もナイター中継にかじりついていたのだと思う。

では、そのときは母何をやっていたのだろうか。思い出すのは、母が台所でおかず作り、できあがったのもを次々と運んでくるというような、忙しそうに立ち働く姿だった。そのころの食事はお世辞にもご馳走とは呼べるようなものではなかったから、そんなに次から次とおかずが運ばれてくるはずはないのだが、なぜかそういう記憶が焼き付いている。

父は鉄道員だったから、非番の日と泊まり日とが交互にあって、父のいる日は母が一生懸命に酒の肴を作っていたため、自然と品数が多くなったのだろう。しかし、父のいない日はきわめて質素なものだった。そんなことから、父の帰宅した日の夕飯時と母が忙しそうに働らく姿とが二重写しに感じられるのだ。

父は食べ物に結構口うるさい人だった。今から考えると、母は父がいない日にはうまく手を抜いていたのではないだろうか。そういった多忙な生活の中にもメリハリとかしなやかな切り替えみたいな構えを身につけていたように思う。そんな母だからこそ、長く元気に生きて来られたのかもしれない。母の一周忌を迎えて、そんなことを考えた。
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by hasiru123 | 2013-11-04 18:04 | その他