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小江戸川越ハーフマラソン2017を走る

3年ぶりの小江戸川越ハーフマラソンを走ってきた。早朝は冷え込んだが、時間とともに気温が上がり、風もが弱かったため、この時期としてはとてもいいコンディションに恵まれた。

メインのハーフマラソンの部には男女合わせて約6,400人のランナーが出場した。この規模の大会になると、選手個人の視点で会場全体の様子を把握することは難しく、自分の行動した周囲のことくらいしかうかがい知ることができない。

私はスタート10分前に待機レーンへ入ったが、前列から数えて自分のナンバーカードにあたる位置へスムーズに入ることができた。女子は男子の右側の列へ並ぶことになっていたが、しっかりそのスペースを確保されていた。私は陸協登録者としてエントリーしたので比較的若いナンバーカードを与えられていたためかもしれないが、スタート時の周囲の混乱はほとんどなかった。

今年で8回目を数えるが、回を重ねるごとに大会運営が円滑になり、出場する選手のマナーもよくなったように感じられた。開始当初の混乱ぶりは嘘のようである。そして、4つの大学から招待選手が約80名参加するなどして、記録面でも大会のレベルを押し上げた。

さて、私のことを少し。先にも書いたとおり、大会そのものが久しぶりだったので、目標タイムは設けないで「余裕をもってゴールすること」を心がけた。じつは、直前1週間の調整練習では通常の半分程度の量しかこなすことができなかった。数日前に、右足第一指のマメが固まった後にひび割れを起こしたり、左脚の踝(くるぶし)下に軽い痛みを感じたりしたためである。

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   (写真)19キロ地点を走る私です(撮影:岸啓祐)

結果として、練習不足と出るか、疲労がとれて好結果をもたらすかは、走って確認することにした。後半になって、左足にマメを作ってペースが徐々に落ちていった。しかし、その分だけ身体的には余裕を残して走りきることができたといえるだろう。まずは、これといった故障なくゴールできたことにほっとしている。

3年前よりも約9分の後れを取ったが、よくがんばったと70点くらいをつけることにする。来年は、今回の結果を目標にしたい。


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by hasiru123 | 2017-11-26 19:21 | マラソン

ニコニコペースで

6日後に、3年ぶりで小江戸川越ハーフマラソンを走る。今回はどのように走ろうかと、いま思案しているところである。

3年間には故障を繰り返すうちに、体力も落ちてきた。加えて、練習不足でもある。そこで、無理をしないで、余裕をもってゴールすることを第一にと思っている。そのためには、ほぼイーブンペース、そしてニコニコペースで走りきることだ。

じつは、このニコニコペースというのは、福岡大学でスポーツ生理学を教えておられる田中宏暁先生らが提唱したフルマラソンのトレーニングに効果的と言われるランニングペースのことである。具体的には、最大酸素摂取量の5割程度の運動強度で走る。歩くようにゆっくり走るのである。

ちなみに、最大酸素摂取量というのは、有酸素能力の最大値のことで、5分から10分くらいしか持続させることができない。ところが、5割程度の運動強度で走ると、だれもがいつまでも走り続けることができる。ニコニコペースとは、そんな体に優しい走り方をいうのだそうである。ただし、「エネルギーが残されている限りは」という条件が付されるが。

この考え方の基本は、レースで闘うということはしないで、自然の力にゆだねるということだろう。『ロストターン』(ブルック・ニューマン著/五木寛之訳)を読んでいたら、同じような発想に出会った。運命と闘って生きていくのではなく、それを受容して生きていく。大きな運命を受け入れるということは、決して敗北ではないのだと。

マラソンにおいても、その姿をありのままに受け入れ、じっくり自分自身と向き合うことが、完走につながる。そして、故障を繰り返さないためにも、それは大切なことだと、遅まきながら気がついた。


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by hasiru123 | 2017-11-20 20:57 | マラソン

朝鮮通信使に学ぶ

江戸時代は「鎖国の時代」と言われる中で、四つの窓口を持っていた。薩摩藩の下におかれた琉球王国との通交、長崎における中国とオランダ商人との通商、アイヌの人々と松前藩との交易、そして朝鮮国との通交・通商である。自由な海外交流こそ禁止されていたが、幕藩体制という枠組みの中で、確実に海外とつながっていた。

その意味で「鎖国日本」という呼び名は正しくない、と仲尾宏著『朝鮮通信使―江戸日本への善隣使節』に教わった。

朝鮮通信使に関する記録が、先ごろ国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって重要な歴史文書などを認定する「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されることになった。対馬(長崎県)から江戸を経て、徳川家康が祭られる日光東照宮(栃木県)まで一行が通った地域の外交文書や行列の様子を描いた絵などが評価されたものである。

先ごろ、川越市内で13回目の「川越唐人揃(とうじんぞろ)いパレード」が行われた(注1)。唐人揃いは18世紀から19世紀初頭にかけて、川越氷川神社の祭礼の付け練り物(行列)として本町(現在の元町1丁目付近)の氏子らが朝鮮通信使をまねて仮装行列を行い人気を博したとされる。

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朝鮮通信使は合計で12回来日し、そのうち11回は江戸まで来ている。しかし、川越ヘは一度も来ていない。なぜ、川越に唐人揃いがあったのか。

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そのヒントは、当時隆盛を極めた川越商人の存在にある。

江戸まで朝鮮通信使行列を見に行った川越商人の記録が残されている。塩などを扱っていた榎本弥左衛門(1626-86年)が記した「榎本弥左衛門覚書」だ。

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朝鮮通信使が6回目に来日したときに(1655年)、榎本は江戸本町で見物し、行列の様子を同書に詳しく書き残している。例えば、江戸へ入った日や将軍引見、日光への出発・帰府、帰国の日付などが記録されている。これらは、江戸幕府の公式記録である「徳川実紀」とも一致している(注2)。かれは行列見物から帰ってから、その仮装を思いたったのかもしれないが、川越の町に活気を呼び込みたいという商人気質のようなものを感じとることがでる。

また、川越氷川神社には、朝鮮通信使を模写した「朝鮮通信使行列大絵馬」が残されている。どのような経緯で大絵馬が奉納されたかは不明だが、江戸時代の氷川祭礼には本町(こちらは川越の本町)の付祭に朝鮮通信使の仮装行列が出ていて、祭礼との関連性がうかがわれる(注3)。

わが国に限らず、隣国と良好な関係を築くことは永遠のアポリア(難題)とも言える昨今である。改めて、このことに正面から取り組んだ当時の日朝両国の叡智に深く感じ入った。

(注1)「唐人」とは「からひと=韓人」のことで、江戸時代には朝鮮人をそう呼んでいた
(注2)『榎本弥左衛門覚書』(東洋文庫)の大野瑞雄氏の校注

(注3)「川越市立博物館だより」第49号
(写真)11月12日の「川越唐人揃いパレード」


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by hasiru123 | 2017-11-14 20:21 | その他