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『栄光の岩壁』を読む

栄光の岩壁〈上〉 (新潮文庫)

新田 次郎 / 新潮社

栄光の岩壁〈下〉 (新潮文庫)

新田 次郎 / 新潮社


芳野満彦さんが、2月5日に亡くなった。

1948年、友人と2人で冬の八ケ岳を縦走中、悪天候に遭い、遭難。友人は凍死し、自らも重い凍傷になって両足の甲から先を失った。懸命のリハビリが奏功し、登山を再開。その後、北アルプス・前穂高岳四峰の又白側正面壁の積雪期初登攀に成功するなど多くの記録をつくり、日本人として初めて欧州アルプスの3大北壁(注)を登攀した登山家として知られた。

私の知る芳野さんは、新田次郎の『栄光の岩壁』を通してだった。あらためて読み返し、最後の第4章「二つの岩壁」で息が詰まった。マッターホルン北壁の頂上までワンピッチという場面である。

「ぼくは疲れた。トップを交替してください」
広は決定的瞬間の栄光を岳彦に譲ろうとしていた。
「なにをいうんだ。ここまでずっとトップをやって来て、ここでトップを交替するって法があるか、つづけてやってくれ、な、やってくれよ」
しかし広は首を激しくふって言った。
「ぼくは疲れた。とても最後のつめをやるだけの力がない。たのむから竹井さん、トップをやってください」

パートナーの吉田広は主人公竹井岳彦の痛めた足をカバーするために、1200メートルもあるというマッターホルンの氷の壁の大部分をひとりでトップを担当した。岳彦の古傷である凍傷して切断した両足先は血に染まっていた。岳彦の頂上へ向けた執念と広のやさしさ。この二人の心の触れ合いが、伝記とは一味違う、人間味を持たせている。

岳彦はリハビリで培った類い稀な上腕の筋力もさることながら、「僅かながら、靴の先のことが足の両脇に感じ取られるような気がした」という感覚を頼りに登攀訓練を怠らなかった。うまい言葉が見つからないが、苦闘シーンの数々がドキュメンタリータッチに陥ることなく、人間のドラマとして見事に仕上がっている、といえるだろうか。

この本を読んで自分も鍛えられたかな、と思えてしまうくだりがあった。それは、厳冬期の北アルプス・徳澤園での孤独な冬ごもりである。半年間に及ぶ山小屋の管理人として務めは、社会や人々から隔絶された孤独な生活だ。徳沢園を拠点に、岳彦は岩と氷の壁に食らいついた。芳野さんもきっとここで、登頂を目指す心を鍛えられたに違いない。

私は、冬の寒さに挑む気持ちが少し前向きになった。今年の春は遅いが、早朝のランニングが、あまり苦なならくなったから。いや、これは気のせいかもしれない――。


(注)アイガー、グランド・ジョラスとマッターホルンの切り立った北壁を三大北壁と呼ぶ。
by hasiru123 | 2012-03-25 22:42 |