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『速すぎたランナー』を読む

速すぎたランナー
増田 晶文 / 小学館
ISBN : 4093792275
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「英語が強くなりたかったら国語を勉強しなさい!」とはかつての受験指導のプロの言葉です。「パラドックス」という概念の説明にも引用されたりしました。マラソンでも同様な言い方ができると思います。ゆっくり走れば速くなる――。これは、理想的なランニングとは「疲れないランニング」であることを基本に指導に取り組んだ、故佐々木功氏(元日電HE監督)の言葉です。疲労を取りながら走る、走りながら疲労性物質である乳酸をエネルギー源となる物質に変換させて、それを燃やして走る。これがLSDによる身体資源の開発であると、佐々木さんは著書『ゆっくり走れば速くなる』の中で力説しています。

マラソンにおけるLSDの効果は、たとえば5000メートルで15分を切るか切らないかといような選手でも、マラソンで2時間10分を切るレベルで走れることを目指すようなことだと思います。そうであるのなら、5000メートルで楽々と14分をクリアするようなスピードを持ったランナーであればもっと先を目指せるか――。

類い稀なスピードを持ちながら、「ゆっくり走ること」を会得できずに失敗を重ねるランナーを追ったルポがあります。増田昌文さんの『速すぎたランナー』は、マラソンランナー・早田俊幸が最速のランナーでありながら、その素質を開花できなかった人生を追いながら、マラソンの魅力を語っています。

早田には数々の異名がありました。「ロケット走」「ハンター」「区間賞男」「30キロまでの男」「孤高のランナー」「流浪のランナー」・・・。「ハンター」というのは駅伝で、早田が前を行くランナーは必ず仕留めることに由来しています。また、「流浪のランナー」は、実業団チームで鐘紡、アラコ、ファーストリテイリング、本田技研と4つの企業を渡り歩いたことを揶揄して言うときに使われました。

早田が華々しくデビューしたのは、1991年の東京国際マラソンでした。バルセロナ五輪の代表選考会を兼ねている同大会には、中山竹通(当時ダイエー)と森下広一(当時旭化成)の新旧対決で注目されましたが、勝負はトラックに持ち込まれ、6秒差で森下が中山を制しました。そのとき早田は、2人に続いて2時間10分37秒で3位に入っています。テレビの中継を見ていて、終盤の勝負所で、2番手をつけていた中山が何度か振り返って早田との距離を確認していたのをよく憶えています。中山から見れば、早田との距離よりも前を行く森下との距離の方が明らかに近かったのですから、この場面では早田を気にすることよりも森下との距離を詰めることに注力するのが普通だと思います。おそらく、早田がトラックや駅伝で発揮したスピードが中山の脳裏をよぎったのでしょう。

早田は惜しくもバルセロナ五輪には選考されませんでしたが、森下と中山が五輪でそれぞれ2位と4位という成績を収めたことから、早田への期待は大きく膨らみました。しかし、早田にとっての苦悩はここからは始まります。38キロの勝負所でもっと粘って、なぜ中山の前へ出られなかったのか・・・。持ち前のスピードを活かすことなくスパートを躊躇したことが、「その後のレースに微妙な影を残す」ことになります。

その後、福岡国際マラソンで2時間8分7秒という当時日本歴代4位の記録を作りますが、一度も勝つことはありませんでした。著者は「30キロを過ぎると白い靄が漂い、それまでの快走をうち消してしまう」と書いています。それを森下広一(トヨタ九州監督)は「壁」と表現し、伊藤国光(カネボウ監督)は「倒すべき目標の不在」と言っています。また、亀鷹律良(アラコ監督)は「ゆっくり走ることによるスタミナ養成ができていない」こと挙げ、瀬古利彦(ヱスビー食品監督)も「マラソンを走りきるスタミナがない」から「レースを支配できない」と指摘しています。それからは、途中棄権や失速、練習方法に戸惑ってはチームとの軋轢を繰り返します。

それでも、早田に対してランナーたちの共感を呼ぶのは、「胸中に、<われも早田>という切ない思いを抱いているに違いない」からだと著者は語り、「勝者ならざる早田はアンチヒーローといえる。だが彼の十年に及ぶ、敗れてなおも挑む姿勢は、ヒーローには醸せない滋味と磁力を放っている」と書いています。「多くのマラソンランナーはいつしかレースに参加しなくなり、自然消滅のような形でランナー生活を終えて」いますが、最近早田の走りをテレビで観ることはなくなりました。風の便りでは本田技研狭山工場の正社員として勤務しているということですが、私も入間川沿いのサイクリングコースで走っている姿を見かけたことがありました。これからも、早田の疾走は忘れることがないと思います。

本書は早田を巡る多くのマラソン関係者からの取材で成り立っています。早田のマラソン人生だけでなく、走ることについて多くの教示と情報を提供しています。市民ランナーにとっても、マラソンを観たり楽しんだりする上で大変参考になると思います。それにしても、中山竹通の「マラソンという私小説」を語るくだりは大変刺激的でした。「市民ランナーたちは、楽しいランニングなんて言うでしょ。そういうのってすごく腹が立つんですよ。マラソンなんか、どこが楽しいんだって言ってやりたい。あんなの苦しいだけですよ」
by hasiru123 | 2006-02-26 23:06 |